信長の馬
三国志も好きですが、日本の戦国時代がテーマのものも好きです。
まあ、要するに、競馬も含めてKOEIのゲームになっているようなテーマはだいたい好きということです。
戦国大名だと、信長、信玄、あたりが好みですね。
信長というと、天才であり、また、合理主義者で恐ろしいイメージもありますが、実は馬好きだったとか。
本人が馬好きですと言ったわけではないのですが、信長の事績を記録した「信長公記」には、何度か馬の話が出てくるんです。
まず最初に出てくるのが、信長の家来の平手五郎右衛門とのやりとり。
平手五郎右衛門が名馬を持っているとききつけた信長は、その名馬を譲って欲しいと頼みます。
しかしながら、平手五郎右衛門は家来の分際で、「馬は武士に必要なものです。どうかお許しください。」などと生意気なことを言ってしまいます。それ以来信長はこのことをずっと恨みに思っていたらしく、たびたび思い出しては、それが次第に主従関係の不和につながっていったとか。
殿さまとしては、少し心が狭いかなとも思いますが、馬好きからすると、さもありなんとも思えるエピソードではあります。
次に出てくるのが、信長の弟の秀孝が事故死したときのお話。
弟の秀孝が川で魚とりをしていたときに、誤って弓で射られて死んでしまうという大事件が発生します。
清州城にいた信長は、弟が弓で射られて死んだという報を聞くと、すぐさま馬に乗り、3里、およそ12kmを一気に駆け抜けて事故現場に向かいました。事実関係を確認して来た道を戻って、合計24kmの道のり。これを信長の馬は難なく駆け抜けたとのことです。
信長は若いころ、自ら朝夕に自分が乗って馬の調練をしていました。詳しい記述はありませんが、おそらくは、朝、夕で別々の馬、2頭を調練していたか、又は、もっと数多くの馬をローテーションさせて調練していたのでしょう。信長自身が今でいう調教師であり、調教助手であったということです。
信長の馬は調教を積んでいたので、片道12,000mを走っても、また、往復で24,000mを走っても、馬は何ともなかったと。
一方で、困ったのは家来たちの馬。皆それぞれ名馬に乗っていたようですが、それら家来たちが乗った馬は普段は厩につながれているだけで、常時乗ることがなかったのです。
信長が飛び出して行ってしまったからには、家来たちはすぐさま追いかけなければなりません。ところが、屈強の名馬にもかかわらず、普段調教していない馬たちですから、片道12,000mの途中で荒い息を吐いて、途中で倒れる馬が続出したと記されています。
どんな名馬でも、きちんと調教しなければ倒れてしまう。当たり前のことではありますが、改めて調教の大切さを感じますね。
最後に出てくるのが、奥州の伊達輝宗、有名な伊達政宗のお父さんに当たるのですが、そこから馬が2頭献上されたというお話。2頭のうち、鹿毛の馬のほうは、奥州でも有名な乗り心地無類の駿馬であったそうで、信長は非常に気に入って大切に飼ったそうです。
この馬は、「これは竜の子だ」と言われていたそうで、一体どんな馬だったのか見てみたい気がしますね。この時代の馬はサラブレッドではなく、木曽馬みたいなかわいいタイプですから、それで「竜の子」というのは想像がつきません。
いずれにしても、この「乗り心地無類」というのは、非常に大切な要素なんでしょうね。今でいう、「背中が良い」、っていう感じなんでしょう。
昔の文献にも、良い馬の例が載っているというのは非常に面白いですね。
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